キオクシア(旧東芝メモリ)は、AI技術と人間の力を組み合わせ“漫画の神様・手塚治虫氏に挑む”とし、新作漫画を制作。「ぱいどん」という作品が、2月27日発売の講談社「モーニング」に掲載されることが決定した。
マンガの神様・手塚治虫の新作が読めるそうだ。
ある人がこの記事を読んで「少し怖い」と言っていた。
分かる。
おそらくその人は手塚治虫の立場から見て、死後に自分の過去の作品を元に”それらしい”作品が知らないうちに作り出されていくことに対する恐怖を言っていたのだと思う。
コピーロボットがわたしの知らないうちに、わたしの顔と名前で他人に影響を与えているようなものだ。なんと恐ろしいことか。
もしこれが商業的に大成功したら更なる新作を求めるだろう。未完の作品の続きを書かせようとするかもしれない。それがいいのか悪いのか、わたしにはわからない。
そこでふと思ったのだが、手塚治虫はすでに亡くなっているが、仮に存命の作家が自らの作品をAIに機械学習させることでAIに新作を作らせて、その新作を添削・修正する形で完成させ自分の作品として発表した場合、これはAIの作品だろうか、作家の作品だろうか。
添削・修正の量や質にもよるかもしれないが、これを「作家の作品ではない」と断言することは難しいと思う。
そうなってくると、ある程度定期的に新作を発売したい出版社の意向と作家の気持ち次第では、程度の差はあれAIに作品作りを手伝ってもらうという現実はそう遠くないのではないだろうか。
特にこういう話はビジネスとしての側面が強いと促進されると思う。
例えばマンガではなく音楽ならどうだろうか。
AIに自分風の作品を作ってもらい、それに修正を加えたものを自らの名前で発表する。わたしが知らないだけでもうすでにありそうだ。そのうち「実はAIに作曲を手伝ってもらっています」なんていうミュージシャンが出てくるのではないか。
今はAIに作品を作らせるためにお金の時間と手間が相当にかかっているようだが、いづれ安価に手軽に創作させることも出来るようになるのは間違いない。
意外なところで人間と機械の境界線を考えるきっかけになった。